日本人移住者  
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ドミニカ共和国移住者関連ページ&新聞記事
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ドミニカ共和国日本人移住者を語る 本
「ドミニカ移民は棄民だった」(高橋幸春、今野敏彦:赤石書店)
「ドミニカ物語」(日下部弘:朝日新聞東京本社出版サービス)
「再びドミニカへー我が紀行、ドミニカ移民は今ー」(高石秋助:南の風社)
「ドミニカ共和国古老談」 北欧商事出版

ドミニカ共和国移住表
入植時期 入植地名 家族数 人数  入植年月日 船名    備       考
第1次 ダハボン 28 185 1956.7.29 ぶらじる丸 最初の入植地。半乾燥地で水、冠水問題続出。ハヒチの国境に近い。集団入植した場所には記念の石碑が建っている。最初の移民の家も残留。ドミニカ人達が住んでいる。他国の移民では、38年ユダヤ人がアスアルに,40年にポルトガル人が入植するが全て撤退している。
第2次 ダハボン 1956.10.4 ぶらじる丸
第3次 ダハボン 1956.12.31 ぶらじる丸
第4次 ダハボン 28 144 1957.3.8 あふりか丸
58 338
第1次 コンスタンサ 17 120 1956.10.4 あふりか丸 35家族が入植した。主に高原野菜栽培などを行ったが、土地が十分でなく日本人同士の競合になり、転耕する人が相次いだ。
第2次 コンスタンサ 12 68 1956.12.31 か丸りか丸
第3次 コンスタンサ 7 1957.3.8 あふりか丸
第4次 コンスタンサ 25 1959.6.29 あふりか丸
35 220
マンサンーニョ 32 1956.10.4 あふりか丸 鹿児島県の漁業移民。漁具、船まで本邦から持参するが、予定した水産資源が無く、全員が島を出る。
第1次 ネイバ 15 61 1957.11.2 あふりか丸 瓦礫だらけの土地に葡萄を導入したが、土地問題等で残留者なし。日下部弘さんの実録ドミニカ物語を読むと葡萄導入までの経緯がよく分かり、定着までの苦労が偲ばれる。ドヘルヘまで約10キロの距離で移住者達はよく行き来していた。
第2次 ネイバ 15 1957.11.2 あふりか丸
第3次 ネイバ 11 1959.6.29 ぶらじる丸
24 97
第1次 アルタグラシアス 22 46 1959、6.29 ぶらじる丸 アグアスネグラよりさらに奥に入ったコーヒー移住地。霧がかかりコーヒー栽培には適していたが、道路等のインフラの整備が遅れていた。数年前に最後の移住者た土地を離れて、現在は日本人農家は居なくなった。
第2次 アルタグラシアス 14 29 1959,9,6 アメリカ丸
36 75
第1次 ドヘルヘー 32 135 1957.12.2 あふりか丸 バルコ山脈の山麓にある砂漠の塩気の多い土地。近くのスペイン人移住者も撤退。ハヒチの国境に近い、19657年にハンガリー人582名が入植するが失敗。1979年に共同墓地が建設された。灌漑水路を利用した野菜等の営農を考えたが全て失敗。全員が脱耕した。
第2次 ドヘルヘー 20 1958.1.24 ぶらじる丸
37 155
第1次 ハラバコア 13 68 1958.1.24 ブラジル丸  土地も肥気候もよく最適の土地現在も数家族が残る。当時の入植者の住居も残っている。
 日高さんは未だに当時の日本政府の対応が悪く、大きな混乱を巻き起こした責任はとるべきだと主張している。
第2次 ハラバコア 17 1958.5.28 ブラジル丸
第3次 ハラバコア 1959.9.6 アメリカ丸
ハラバコア 16 87
第1次 アグアスネグラ 25 141 1958.5.28 ブラジル丸 ハヒチの国境近く。アルタグラシアスよりペデレナルに近い。新道が整備してからアクセスがよくなった。気候はよし。湿度も適度にある。
 入植時はインフラの整備が皆無で脱耕が相次いだ。鹿児島大隅町出身の田畑初さん一家が最後に残り120Haにコーヒーを植えている。
 子供達3名は子供の教育もあり麓の町ペデレナルにも住む。週末にはアスアの日本語補修校に通っている。片道120キロ。
 移住とは何かを考えさせてくれる人物である。
第2次 アグアスネグラ 32 174 1958.6.26 アメリカ丸
57 315
総計 249 1319